休日の昼下がり、家族と出かける準備をしているとき、玄関で一瞬だけ手が止まる。ポケットには、最新のiPhone 17 Proが入っている。サッと取り出すだけで、驚くほど鮮やかで綺麗な写真が撮れる優秀な相棒だ。実際、カメラを家に置いてスマホだけで出かけた日に、フォルダが綺麗な写真で埋め尽くされているのを見ると、「これで十分じゃないか」と複雑な気持ちになることもある。重くてかさばる一眼レフカメラをわざわざ持ち歩くのは、効率を考えれば無駄なことなのかもしれない。それでも私は、ずっしりとした重みのあるカメラバッグを手に取ってしまう。手軽さの誘惑に揺れながらも、ポケットの軽さではなく、両手で大事に抱える不自由さを選びたくなる理由が、今の私には確かにある。
ポケットに収まる最新スマホの綺麗さに、少しだけ手が寂しくなった日
かつて子供が生まれたとき、「どうしても綺麗な写真を残したい」という一心で一眼レフカメラを手に入れた。当時はスマホの画質も今ほどではなく、一眼レフが映し出す背景のボケ味や空気感には圧倒的な魅力があった。だが、時代の変化は早い。今や手元にあるiPhoneは、特に意識しなくても信じられないほど鮮明な風景や家族の表情を切り取ってくれる。
手元に一眼レフカメラを持たずに外出した日のことだ。何気なくスマホで撮り溜めた写真を帰りの電車で見返していると、子供が笑った瞬間も、歩きながら何気なく撮った街角も、色のバランス、明るさ、すべてが自動で最適に調整されていて、ブレ一つなく整っていた。電車の窓に映る自分の姿を見ながら、“こんなに簡単に綺麗に残せるなら、あの重たいカメラは何のために持っているんだろう”と、少しだけ胸の奥が静かになった。「もう、重いカメラをぶら下げて歩く必要はないのかもしれない」と、一眼レフユーザーとしては少し悲しい現実を突きつけられたような、寂しい気持ちになったのを覚えている。効率や手軽さを最優先にするならば、スマホ一台で完結させるのが間違いなく正解なのだろう。ポケットにすんなり収まる軽さは、移動のときも本当に快適だ。しかし、その綺麗すぎるフォルダを眺めているうちに、私の心の中には、言葉にしにくい小さな違和感が芽生え始めていた。
ぶつけないように触れ、光を気にする不自由さの中に宿るもの
一眼レフカメラを持ち歩くということは、スマホの手軽さとは正反対の「気を遣う時間」を引き受けることでもある。スマホならポケットに放り込んでおけば済むが、カメラはそうはいかない。高価な機材だし、むやみに周囲の壁にぶつけたり、落としたりするわけにはいかないのだ。
だからこそ、カメラを首からぶら下げているときは、常に周囲との距離感に神経を尖らせている。狭い通路をすれ違うとき、人混みに入るとき、自然と右手はカメラ本体に伸び、ぶつからないようにそっと触れてガードしている。歩いている間、ずっとその重みと存在感を意識し続けている状態だ。
さらに、いざ写真を撮ろうとするときも、スマホのようにはいかない。スマホなら画面を向けた瞬間に逆光すらも自動で補正してくれるが、一眼レフは自分で光の向きを気にしなければならない。「今は逆光だから位置を少し変えようか」「周りの景色の写り込みはどうだろう」と、スマホを操作しているときには見向きもしないような、周囲の細かな変化に目を配るようになる。
YouTubeのカメラ講座を見て勉強しても、いざ本番になると設定を忘れてしまい、頭が真っ白になることだって今でもよくある。以前、公園で子供が走ってくる瞬間を撮ろうとして、慌てて設定を触っているうちにシャッターチャンスを逃してしまったことがある。あとから見返した写真は全部微妙にピンボケで、その日の帰り道はかなり落ち込んだ。動画のように一発で上手くいくことの方が少ないかもしれない。けれど、そうやってぶつけないように気を遣い、光や景色に惑わされながら、両手でしっかりとカメラを抱えている時間そのものが、私にとって「写真を撮っている」という確かな実感になっている。ただ目の前の光景を消費するのではなく、その場所の空気に深く関わっている感覚が、そこにはある。
かつての自分を超えて、思い通りに背景がボケた瞬間の静かな高揚感
使い始めの頃は、ボタンの多さや設定の意味が全く分からなくて本当に苦労した。今でも専門的な知識に詳しいわけではない。最初に付いていたレンズでは、遠くのものを大きく写すことや、自分が思い描くような劇的な表現をすることが難しく、思い切って望遠レンズを買い足した。
正直、レンズ一本にここまでお金をかけるのかとかなり迷った。それでも、運動会で遠くにいる子供の表情をもっと綺麗に残したい気持ちが勝って、何日もレビュー動画を見比べた末に購入を決めた。
その新しいレンズを装着し、ファインダーを覗き込んでシャッターを切ったとき、ファインダーの向こう側で主役だけが浮かび上がり、背景が優しく、とろけるようにボケていく光景が目に入った。その瞬間、言葉にならない静かな高揚感が胸の奥から湧き上がってきたのを覚えている。
それは、スマホの画面をタップして作り出される擬似的なボケ味とは、明らかに違う手応えだった。設定に迷い、重さに耐えながらも、自分の意思でピントを合わせ、思い通りの一枚を切り取ることができた。その経験は、最初の頃に「使い方が分からない」とカメラの前で立ち尽くしていた、かつての自分を少しだけ超えられたような、誇らしい気持ちにさせてくれた。成長した自分を褒めてあげたくなるようなあの瞬間を一度でも味わってしまうと、もっとボケ味を活かした写真を撮りたい、もっとこの道具と向き合いたいという気持ちが、どうしても止まらなくなるのだ。
疲れて帰った夜、それでも手入れを怠らない大人の誠実さ
カメラを持ち歩く楽しさがある一方で、使い終わった後の手入れは本音を言えば面倒くさい。撮影を終えて家に帰り着く頃には、体も足もすっかり疲れている。バッグから重いカメラを取り出して、レンズに付いたチリを吹き飛ばし、クロスで丁寧に拭き上げる作業は、効率主義の視点から見れば、一刻も早く眠りたい夜の「無駄な手間」そのものかもしれない。
しかし、どんなに疲れて帰ってきた日でも、不思議と手入れをしないまま翌日に持ち越したことは、今のところ一度もない。やはり高価なものであり、大切な家族の歴史を一緒に歩んできた道具だからこそ、手入れを怠らずに長く大事に使いたいという意識が自然と働くのだろう。
静まり返ったリビングで、テレビも点けず、レンズクロスがガラス面を擦る小さな音だけを聞きながらただ黙々とレンズを拭いている時間。それは、日中の賑やかな時間の余韻に浸りながら、今日という一日を自分の中で静かに締めくくる、どこか心地よい儀式のようでもある。ポケットから取り出すだけの手軽なスマホを、これほど毎晩丁寧に拭き清めることはきっとないだろう。手がかかるからこそ愛着が湧き、愛着があるからこそ、疲れていてもその面倒くささを引き受けたくなる。
窓の外の夜空を見上げながら、綺麗に整ったカメラをそっと防湿庫に仕舞う。明日もまた、この不自由な相棒をカバンに詰めて出かけよう。その手間の中にこそ、自分だけの特別な時間が流れているのだから。
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